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サラリーマン生活30年 分野を限定せずに幅広いジャンルで旅、生活、興味のあることを 普通の会社員生活視点から情報発信してまいります。

出張という旅  番外編 南大東島

番外編  南大東島

 

 私は入社当時から出張には縁があった。入社して最初に配属になったのが沖縄の那覇で、1991年から3年間、那覇を拠点に県内の離島を担当し、営業で飛び回っていた。

 沖縄で生活して仕事をするという事は、とても貴重な経験をさせてもらったと思う。

当時の出張規定では同一県内の移動については出張扱いではなかったが、那覇から石垣島までは400キロ以上、東京大阪間に匹敵する距離があり、移動手段は飛行機なので実質的には出張であった。 

 石垣島宮古島にはひと月に2回、久米島には半年に1回程度の頻度で向かっていた。

当時の沖縄離島を結ぶ航空路線は南西航空という白地にオレンジ色濃淡のラインが印象的なエアラインであった。1993年に現・日本トランスオーシャン航空へと商号が変更になった。

まだ航空会社のマイレージプログラムなどなかったのが今から思えば大変残念である。

当時はまだプロペラ機のYS11も健在で久米島与那国島へ向かった際、何度か搭乗した。YS11のプロペラ音と振動のあとにB737に搭乗すると、ジェット機の快適さを改めて実感したものだ。そのB737もいまはなき第一世代のB737-200とよばれるエンジンが長細いタイプであった。

一度だけ宮古島から高速船で伊良部島へ渡り、短い橋で繋がった下地島の空港から1日に1便だけ運航していた那覇行きのYS11に乗ったことがある。当時、伊良部大橋はもちろん架かっていなかった。

下地島空港パイロットの訓練飛行場として開設されたので3000メートルの滑走路がある。しかしタクシーが横付けした空港ターミナルは、一見、サトウキビの倉庫かと見間違えるような平屋の小さな建物だ。看板の類も一切ない。

恐る恐る中に入るとレンタカーの受付のようなカウンターがあり、そこがチェックインカウンターであった。

 

仕事で渡った沖縄の離島で一番印象に残っているのは南大東島である。台風の通り道にあるため台風のシーズンになると、天気予報でその名前をよく耳にする。

この島は沖縄本島から東方400キロに位置する大東諸島の絶海の島である。地図を見ると宮崎の真南にあたり、さらに東方へ向かえば小笠原諸島である。勿論、その間に陸地は存在しない。

南大東島に何しに行くのかと思われるが、取引先の小売店がちゃんとあるので立派な出張である。しかし、なかなか簡単に行ける所ではなかった。当時は南大東島空港の滑走路が短く、定員19名の小型プロペラ機が1日に2往復しか飛んでなかったこと。それゆえ航空券の入手がとても困難であった。また、海上の有視界飛行のため、天候が怪しいと飛べなくなり欠航率も高かった。

このような秘境ともいえる小さな島ゆえ、よほどの理由がないと出張の許可が出そうもなかった。

しかし市場を知る必要性と、小売店の状況を視察するという、もっともらしい理由を添えて出張申請を上司にしたところ、意外とあっさり許可がおりた。後で分かったことだが、ここ何年も担当者がこの島に行っておらず、現状を誰も知らないので、この機会に見てこさせようとのことだったようだ。

運よく往復の航空券が入手でき、1992年10月21日に南大東島へ向かった。飛行機はDHC6ツインオッターと呼ばれるカナダ製の双発プロペラ機。かつては離島路線の欠かせない存在として、北海道から沖縄まで各地で活躍した飛行機である。今は日本国内からは引退してみることはできない。

機内は大変コンパクトで背中を屈めて機内に入った。機内は与圧されておらずマイクロバスのような空間で、座席もベンチに近いものだった。満席のはずだが幾つかの空席があった。後で分かったことだが南大東島には給油施設がないため往復分の燃料を満載しなければならない。そのため往きのフライトは燃料を積む分、重量制限のため定員を減らしているとのことだった。それを知って、ますます南大東島の遠さと行きづらさを実感した。

南大東島までのフライトは1時間30分くらいだっただろう。JALやANAのジェット機なら九州まで行けてしまうが、ヒトと荷物と燃料で満載の小型プロペラ機は大海原の上を時折雲をくぐりながら飛行を続ける。飛行高度が低いので海面の波間までもはっきり見える。延々と海原が続いていたが前方に小さく陸地が見えてきて、だんだんと大きくはっきり見えてきた。島の周りは断崖絶壁だ。

機体は高度を下げ着陸態勢にはいる。ジェット機なら少々機首を上げ気味に降下していくが、ツインオッタ―は逆に機首を下げて滑走路に突っ込んでいくように短い南大東空港の滑走路にランディングした。

バスの待合所のような小さい空港の建物では取引先の社長さんが出迎えくれた。

ピックアップトラックの助手席に乗せて頂き、島の中心部にあるお店に向かった。沖縄によくあるコンクリート造りの建物は意外と店内が広く、食料品をはじめ洗剤等の日用品から自転車迄置いてあった。圧倒されるくらいなんでも置いてある、そんな品数である。社長さんは「島には店が数軒しかないから、なんでも取り扱わないと島の生活が成り立たない。生活物資は月に数便の船便で那覇からやってくるが、少しえも海が荒れようなら船が来ない。だから在庫もしっかり備蓄している。」と言う。

絶海の孤島の厳しさがこの話から伝わってくる。

お店の従業員さんと自社商品の売れ行きなどを聞いていたが、5年ぶりくらいに当社の営業が訪ねてきたとのことであった。

せっかくだからと沢山の商品注文を頂くことができ、一通りの業務を終えると、社長さんが島内を案内してくれた。

島内は「幕」と呼ばれる小高い丘が周囲を取り囲んでいるので島というよりどこかの平原にいるような錯覚を覚える。「幕」の向こうは断崖絶壁でその下は海大波が絶壁をたたいている。

砂浜などはなく、船が接岸できないことから人も荷物もゴンドラに乗って上陸するときいた。かつては島内で採れたサトウキビを運ぶための簡易な鉄道が島内を運行していたようで、港に近くにはコンクリートに埋もれたレールを見ることができた。この絶海の孤島にかつては鉄道があり、線路が残っていたことにとても驚いた。

島の周りは絶壁だが海面近くまで下れるところもあり、そこには海軍棒とよばれる岩場をくりぬいた天然のプール!があった。海軍棒という名前はすごいが、近くの岩場に明治時代に旧海軍が測量用に建てた棒に由来しているとのことだった。このプールは満潮時には海面下になるのでとてもワイルドだ。

島内の食堂で何かを食べたはずだが残念ながら記憶になく、社長さんに帰りの空港まで送って頂いた。

「島には中学までしかありませんから、卒業すると子供たちは皆、島を離れるのです。十五の春に巣立って行くのです。」

と車中で社長さんが語った言葉に胸が熱くなった。

 

あの絶海の孤島に出張で訪ねたということが25年以上たった今日でも強烈に記憶に残っている。今では飛行機も大きくなり,かなり行きやすくなったようだが絶海の孤島であることに変わりはない。

台風のシーズンに南大東島の名前をテレビの天気予報で聞くたびに、今でも出張で訪ねたことを思い出すのである。